田村神社

田村神社

所在地 白石市斎川字上向山

『田村神社』はこの字地内にあって、昔の小名は越王堂といった。

祭神は坂上田村麻呂・鈴鹿神女で、配祀は天照大御神・誉田別尊・素盞鳴尊など十一神である。

『宮城県の神社名鑑』によれば、桓武天皇の延暦年間(奈良時代~平安時代前期・七八二~八〇五)、坂上田村麻呂が蝦夷を退治平定し、地元民はその恩徳を敬い慕って祠を建て、田村将軍、鈴鹿神女を奉祀して古将堂 (越王堂とも)と称号した。

後に現社号に改められ、明治五年九月村社に列格し、同四十年三月供進社に指定、同四十二年十二月には、愛宕(愛宕山)、雷(荒屋敷山)、八雲(馬牛)、水(姥神)、若宮八幡(ヶ岡)、塞(塞ノ上)、白山(同上)、神明(保科)、金刀比羅(鹿子山)の各神社を合祭した。とある。

また、『白石市史』には、『田村神社』は 奥州街道が斎川宿から馬牛沼にかかる 坂道の東側の麓に鎮座する北面の木造の神社で、北に「斎が川」が流れているが、九世紀の頃、坂上田村麻呂はこの川で斎戒沐浴したあと、鈴鹿明神の助力を得て悪路王とその兄弟分の青鬼・赤鬼などの蝦夷を征伐したので、村人がその徳を慕って祠を建て田村麻呂と鈴鹿神女を祀ったと記されている。

元来、田村神社は北陸・西奥羽などの日本地方に多い古四王神社・越王神社などと同じで、北向きの建物であるのがその特色である。故将堂・越王堂・古四王堂などとも呼ばれ、初めは蝦夷平定にかかわった越の王・大彦命を祀る神社であったという。

若宮八幡神社

所在地 白石市斎川字鶴ヶ岡

鳥居をくぐり石段を登って行くと、杉と竹林の中に三間半四面の社殿があって、昭和三十六年旧三月十五日と平成十年十二月十九日に屋根の修復が行われている。

『安永風土記』には源 頼義が天喜五年(平安時代中期・一○五七)、安倍貞任征伐を祈願してこの『若宮八幡社』を勧請したといい、鎌倉鶴ヶ岡になぞらえてこの名があると記されている。

境内には多くの庚申碑が建っており、なかでも享保九 甲 辰九月吉祥日 (江戸時代中期・一七二四)と刻まれた『庚申供養碑』と、明治廿六癸 巳歳二月七日講中の『廣申碑』が大きい。

また、『子安観世音像碑』は、江戸時代後期の寛政三年(一七九一)正月に造立されたもので、高さ八五㎝、 山ノ入薬師堂の像と同じ形態とみられ、子供の健やかな成長を祈り、あるいは、死児の冥福を祈って集まる女人の講中が建立したものである。

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